「さよなら、そして、ありがとう、
    美江子さん」

 
 



「ごめんなさいね、 コンサートのお手伝いは今年限りで打ち切らせてもらいたいの。その代わり、東京のコンサートではできるだけの応援をさせてもらうから。」美江子さんから、私の実家の母のところにそんな電話が来たのが、去年5月の私達の日本でのコンサートが終わって間もない頃でした。「もう出来ないんだって」「何だあ、美江子さん、もう息切れしちゃったのかな?この前は、また来年も頑張りましょう、なんて張り切っていたくせに…」そんな会話を母と交わしていた頃、多分、美江子さんは、自分自身の身体がひょっとしたらのっぴきならない状態になりつつあることに、うすうす感づいていたのかも知れません。その頃はまだ、誰にも気づかれないように、何事もないように振舞いながら、少しずつ、身の回りの整理を始めていたのかも知れない…、今になってみると、そんな気がしてなりません。


埼玉県の秩父 に住む美江子さんは、私の遠い親戚に当たる人です。歳は私よりずっと上ですが、むしろ母の方と古いつきあいのあった関係で、私達の東京でのコンサートにはよく聴きに来てくれていました。その彼女が、地元秩父の友人達にも聴かせたいのだけれど、皆、東京までが遠いからと言ってなかなか出て来られない、そこで、是非、私達に秩父でコンサートをやってもらえないか、と話を持ちかけて来たのは、かれこれ5年ほど前のことになります。最初は、小鹿野(おがの)町という秩父市から少し入った所にあるこぢんまりとしたホールでした。色々と話を聞くと、ここは江戸時代から伝わる歌舞伎をいまだに伝承する「小鹿野歌舞伎」で有名な町で、文化活動が大変活発な土地柄であることがわかりました。ここのホールの館長さんと美江子さんが懇意であるということで、私達も初めての土地でありながら大変歓待されたのですが、美江子さん自身が「懇意」であるというのは、何もここの館長さんばかりではなく、後になってまあ出るわ出るわ、とにかく美江子さんという人は、決して大げさではなく、秩父の至るところに「懇意」な人が沢山いるばかりでなく、会う人会う人、ことごとく「懇意」な間柄になってしまう、という、まことに得がたいキャラクターの持ち主だったということが次第にわかって来たのでした。



同時多発テロ の直後に初めて帰国した2001年11月、翌2002年11月、2004年5月と続けて、秩父の市内を見下ろす山の上に建つミューズパーク音楽堂という素晴らしいホールにおいてコンサートをやらせていただきました。ここはとにかく音響が素晴らしく、演奏していて自分でうっとりしてしまうくらい気持ちのいいホールです。いずれも勿論、美江子さんがあちこち奔走して下さったお陰で実現したものですが、ここでも美江子さんは、すっかり地元の「顔」になっていました。お客さんも殆どが美江子さんの知り合い、もしくは、美江子さんがあちこちに声をかけて動員して下さった方々ばかりで、しまいには私達のコンサートなんだか、美江子さんの交友会なんだかわからなくなってしまうほどでした。半分は美江子さんと会うのが目的で、はるばる都内や近郊から駆けつけてくれるお友達も沢山おり、コンサートの打上げから、その流れで美江子さんが予め手配しておいてくれた宿(素敵なロッジだったり、すこぶる居心地の良い温泉旅館だったり、毎年趣向を凝らして下さって、それもまた大いに楽しみでした)で、いつも夜中まで盛り上がり、次の日は次の日で、朝早くから市内観光やお寺詣り等、地元の人でないとなかなか行かれないような所を案内して回ってくれて、前日に初めて会ったばかりの美江子さんの仲間の皆さんともすっかり旧知のように仲良くなって大騒ぎしたものでした。とにかくお祭り騒ぎのような楽しいことが大好き、大勢の人とワイワイ過ごすのが大好き、だから、美江子さんが人をもてなす時なんて半端じゃありません。いっぺんに何人ものお客さんのおもてなしをしながら、周囲への気配りは決して怠らず、それでいて結局は自分が一番楽しんじゃう、そんな人柄ですから、美江子さんを慕ってあちこちからお友達やそのまたお友達が集まっては学生のコンパか修学旅行のような賑やかなイベントがしょっちゅう開かれていたようです。私達が、温泉好きで日本に帰る時には温泉に入るのを楽しみにしていると知るや、毎回、秩父の市内の色々な温泉に連れて行ってくれ、また、ワインが好きだと知ると、地元で作っている美味しいワインをご馳走してくれる、といった具合で、そのおもてなしにこちらが恐縮すると「だって、あたしも好きだから」と言って、決して相手に気を使わせないという細やかな心配りのできる人でもありました。コンサートの時は毎回、「素人だからよくわからなくて」と謙遜しながら、結局何から何まで手配をしてくれ、私達はとにかく行って演奏するだけ、という本当にありがたい思いをさせていただきました。コンサート当日になると、家族の皆さんまで動員して受付をして下さるのは毎度のことであり、結局美江子さん自身が秩父で私達の演奏を客席でゆっくり聴いてくれたことは殆どなかったのではないでしょうか。「いいのよ、私は東京でゆっくり聴かせてもらうから」と、いつも東京のコンサートには来てくれて、最後のアンコールで必ず演奏する「川の流れのように」を聴きながらいつも涙ぐんでいたそうです。(ちなみに美江子さんは美空ひばりの大ファンでした。)


秩父でのコンサート は、そんなわけでいつも美江子さんの肝煎りの「お楽しみ」がオマケについていたものだから、私達も毎回本当に楽しみにしていたのです。だから、美江子さんから「打ち切り」の連絡を受けた時は本当にがっかりしてしまったのですが、それからほどなくして知らされたのが「美江子さんが入院」という、まさに晴天の霹靂ともいうべきニュースでした。もしかしたら、私が2年半前に入院した時なんかより、はるかに大きなヘキレキだったかも知れません。なにしろ、OL時代は会社のバレーボールの選手で鳴らしたというくらいの(身体は決して大きくないのに…)、とにかく「病気」などという言葉とはおよそ縁のないような健康そのものの人で、底抜けに明るくて、ちょっとオッチョコチョイなところはあったけれど、ちゃきちゃきとした大きな声でバカな話ばかりしては、まるでティーンエイジの女の子のように笑い転げている、といったイメージしかなかったものですから当然でしょう。そんな美江子さんが、ある時、おへそのわきに見つけた「ほくろ」が気になって病院で診てもらったところ「皮膚がん」とわかり、即刻入院、手術したと聞いた時は、思わず自分の耳を疑ったものでした。これが昨年の秋頃の話だったでしょうか。入院している病院がこれまた随分遠い所だったようで、横浜に住む母親ですら、なかなか行きたくても簡単にお見舞いに行けるような状態ではなく、様子がわからない分、こちらも随分と心配したのですが、どうやらお正月頃に退院したらしい、と聞いたので一度ニューヨークから電話してみたところ、元気そうな声で本人が出て安心したのです。「おへそ、取っちゃったのよー」なんて、あっけらかんと言ってのけ、私自身の入院の体験談等も交えてひとしきり病院談義に花を咲かせた後、「皆がとってもよくしてくれるんで、本当にありがたいわ」と、ちょっぴりしんみりと言った一言がいまだに耳にこびりついています。その後、抗がん剤の代わりにインターフェロン投与という新しい治療に入るのでまたしばらく入院することになる、と聞いていたので、「早く良くなって退院したら、また、コンサートやらせてよ。また仲間の皆さんとも一緒に飲みたいしね」とお願いして電話を切ったのが、結局彼女の声を聞いた最後となってしまいました。一時は劇的な回復を見せ、今年の春頃には家に帰れそう、という話も伝わってきたにも関わらず、その後再び病状が悪化して退院が遅れそうだ、と聞かされ、そうこうしているうちに夏頃になって重体で意識ももうろうとしているようだ、と聞かされた時は「まさか」といった思いでした。それでも、一縷の望みをかけて、回復を祈っていたのですが、その祈りもむなしく、母から電話で「美江子さんが亡くなった」と知らされたのは9月に入って間もない頃でした。全身から、力が抜けて行き、とにかくお線香を上げて冥福を祈る以外になす術もなく、ただ呆然としていました…


あんなにあっけなく 美江子さんが死んでしまうなんて夢にも思わず、必ず良くなってすぐに退院できると信じていたから、今年の5月にコンサートで帰国した時にも、時間がないし、遠いから、というのでお見舞いにも行かなかったけれど、今にしてみれば、あの時無理してでも時間を作って会いに行っておけばよかった、と悔やんでも悔やみきれません。そう言えば、5月のコンサートの時、ステージで演奏しながら何故か客席のどこかでずっと美江子さんが聴いてくれているような気がして仕方なかったことを思い出します。終わってからも、目を潤ませながら、今にも楽屋に飛び込んで来てくれるのではないか、という思いが付きまとっていて、思わず美江子さんの姿を捜していたものでした。あの時、美江子さんは、身体は病院のベッドの上だったかも知れないけれど、きっとサントリーホールの客席のどこかに来てくれていたって、今でも私は信じています。だから、アンコールの「川の流れのように」は、美江子さんに聴いてもらっている、美江子さんがいつものように涙を浮かべながら聴いてくれている、って思いながら弾いていました。美江子さんのお葬式は、美江子さんの生前を偲ばせるような、それはそれは盛大なものだったと母から聞きました。本当に沢山の人のお世話をし、沢山の人に慕われていた美江子さんなら、さもありなんと思います。ただ、私はニューヨークにおり、またちょうどその頃ダンナは日本に向かう飛行機の中で、結局二人ともお葬式には出られず、だからまだ本当はきちんとお別れをしていないという、何だかやり残した宿題を抱えたままのような気分でずっといます。一度、ダンナがご主人の勲さんにお悔やみの電話をした際、勲さん、電話口で涙にくれて声にならなかった、と聞きました。一番辛かったのは多分勲さんだったであろうことは想像するに難くありません。賑やかな美江子さんの傍らで、いつだって穏やかな笑顔を浮かべながら美江子さんを見守ってくれていた優しい勲さんのことですから、きっと最後まで骨身を惜しまない看病をしてくれたことでしょう。そんな勲さんを残して、美江子さん、自分一人だけ遠くに行ってしまうなんてあんまりじゃないの、という思いもあります。勲さんの気持ちを察すると、かけるべき言葉が見つからず、こちらまで辛くて、なかなか電話をかける勇気が出ませんが、勲さんのみならず、下手したら美江子さん以上に明るくてぶっ飛んでいるかも知れない(!?)美江子さんのお母さん、そして、しっかり者で家族思いのお嬢さんと息子さんをはじめとして、美江子さんをあたかも仲の良い姉妹のように慕う沢山のお友達に見守られて、きっと皆に感謝しながら、美江子さんは旅立って行ったことと信じています。それもこれも、ひとえに美江子さんの人徳なのでしょうね。私も、美江子さんとのことは、本当にいい思い出しか残っていませんし、楽しかったことしか思い出せません。だから、今度日本に帰った時には、必ず秩父のお宅にお邪魔して、きちんとお別れをさせてもらおうと思っています。でも、もしかしたらその前に、西武秩父駅の改札口あたりで、或いは、いつも一緒に食べに行った駅前のおそばやさんで、きっと美江子さんの姿を捜してしまうような気がします。いつものあの人懐こい笑顔を満面にたたえて、美江子さんが待っていてくれているような錯覚に陥ってしまいそうです。
 

美江子さん、 もう一度だけ会いたかったな…。いつの日か、私がそちらの世界に行った時には、必ず捜し出すからね。それまでにそちらの面白い場所を沢山探訪しておいて下さいね。これまで、本当にありがとう。今はとりあえず、さようなら…合掌
 

  2005年10月13日

あいばいくこ   


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