「皆さんありがとう」

−JAA津波救援基金チャリティーコンサートを終えて−
 
 



昨年暮れ に起きた、スマトラ島沖の大地震とそれに伴うインド洋諸国の大津波。連日テレビのニュースで映し出される悲惨な映像を見ながら、何もできずにただただ、もどかしい思いにさいなまれていた頃、次々と義援金の募金に立ち上がるアメリカのコミュニティーを見ていて思いました。被害に逢ったのはいずれも遠いアジアの人々、なのに同じアジア人であり、また同時に有数の地震多発国でもある日本人が何かしないでどうするの?と。


私一人 では僅かな義援金をどこかに寄付するくらいしか出来ませんが、音楽家である自分が仲間を募ってチャリティーコンサートを開いたら、もしかしてより多くの人に働きかけることができるのでは、ということに気がつき、そうなるともう居ても立ってもいられません。たまたま忘年会で我が家に来ていたピアニストの針ヶ谷さんに「チャリティーコンサート、やりたいと思うんだけど」と相談を持ちかけたのが昨年の大晦日のこと。賛同を得て、やはり日本人がチャリティーをやるなら日系人会でしょう、というわけでお正月明け早々に日系人会に話を持ちかけたところ、まさにちょうど日系人会でもユニセフに寄付するための津波被災者救援基金のチャリティーを始めたところだというので、もう即座に「コンサートやります!」と宣言し、日系人会ホールでのコンサート開催が即決したのでした。
 

「やる」と宣言 した以上は出演者探しです。決まった翌日に日本に発ってしまったフルーティストの夫は当然出られないので、知人友人の音楽家に色々と声をかけて行ったところ、次々と賛同者が集まり、そのまた知人友人や口コミで噂を聞きつけた人達がまた、「私も出ます」「私もやらせて下さい」と連絡して来るといった状態で、結局出演者が出揃うのに一週間とかかりませんでした。当然のことながら「ギャラは出ないよ」とさんざん念を押したにも関わらず、です。


やるからには とにかく早いほうがいい、とは言っても皆さんにお知らせする時間や、チラシ、プログラムを作る時間、それに、色々な方にお願いして寄付をしていただくのに要する時間も必要です。勿論、当然のことながら曲を決めて練習だってしなくてはなりません。そのギリギリの線で決まったのが1月27日(木)の本番。正味約3週間しかありません。後先も考えずに走り出してしまった感があって、途中でふと「もしかしてこれってすごく無謀なことをしているのでは?」という疑問にとらわれた時は、もう後には引けない状態になっていました。なにしろ、それでなくても音楽家なんていうのは日頃、ピーピーキャラキャラ音出しているだけの能天気な連中、なんて、誤解されやすい人種なのに(まあ、当たってなくもないですが)、これが途中で「やっぱり無理だった」なんてことになったらもうそれだけで前途はないと思った方が…。能天気な音楽家だってやる時はやる、という執念で、チラシ、プログラム作り、企業、個人の方々に寄付のお願いに手分けして走り回り、その合間に出演者の皆さんのスケジュールを調整してリハーサルをして、挙句の果てにはプロのTVクルーのボランティアにより、コンサートの出演者でもあったタレントの相原勇ちゃんと最年少のヴァイオリニスト、森有紗ちゃん(6歳、実は彼女と勇ちゃんは、NYの日本語放送で流れている某運送会社のCMでも親子役で共演しているというご縁です)出演の宣伝ビデオ制作までやってしまう、という凄まじくも慌しい日々が続きました。


沢山の方々 からの寄付も集まり、一通りの準備も終わって、やれやれこれで何とか無事に本番当日を迎えることができそう、というところまでこぎつけたコンサート前日になって、ちょっとした(?)事件が起きました。出演するはずだったあるグループが、どうしても当日メンバーの都合がつかなくなったということで突然キャンセルを通告して来たのです。もう既にプログラムは出来上がっています。これはもうステージにひとつ穴をあけるしかないか、と覚悟しました。でも、そこでどうしても諦め切れなかった私は、「もしや?」と思い、呆れられるのを覚悟の上で、スタッフとして当日の進行係をお願いしていたバリトン歌手の森本昌巳クンに電話してみました。彼とは実はつい一週間前に知り合ったばかりで、勿論その歌は聴いたこともなかったのですが、話を聞いた限りでの彼のキャリアと人柄、そして、私自身の勘だけを信じて出演を頼んでみようと思ったのです。ところが、出たのは留守電。メッセージを残して待つこと数時間。こりゃあ本格的にダメかと諦めていた頃、ようやく森本クンから電話がありました。「遅くなってごめんなさい。急用って何?」「ドタキャンがあったんだけど、あなた明日出られない?」「ウン、いいよ。何歌えばいい?」これで決まりです。それが午後の3時。全く頼む方も頼む方なら、受ける方も受ける方です。その2時間半後に曲を決めて簡単なリハーサルをしただけで、翌日本番という、考えようによってはこれ以上の暴挙はないと思える暴挙であったにも関わらず、当日配布した修正プログラムには奇跡的に彼の写真入りのプロフィールまで載ってしまったのでした。
 

コンサート当日 は、摂氏マイナス18度という大寒波の襲来で、お客様の出足を心配したのですが、いざそのふたを開けてみるとそれも杞憂に終わりました。開演時刻を過ぎても入場するお客様はひきもきらず、並べた150脚近い椅子はたちまちのうちにほぼ満席状態です。皆さんが座りきれなかったらどうしようと心配したところで、私自身演奏をしなくてはならないので、後は受付の人にうまく対応していただくしかありません。実際、これほどのお客様に来ていただけるなんて全く予想もしていなかったので、ただただ驚くばかりでしたが、同時に、ステージに立ってお客様を前にした瞬間にコンサートの成功を確信したのも確かです。途中で思わず会場の窓を少しあけてもらうほどの熱気の中、コンサートはステージ、客席一体となった、実にいいムードで進行します。



演奏者の方も、 大いにノっていました。6歳ながら度胸と愛嬌の双方を持ち合わせた大物、森有紗ちゃんのヴァイオリンに続いて、かの名指揮者ストコフスキーと演奏していたという大ベテランのチェリスト、紅野俊彦さん、部屋全体が振動するのではと思うほどのいつもながらの貫禄で圧倒させてくれたソプラノの福崎芳枝ちゃん、「タイスの瞑想曲」とクライスラーの「中国の太鼓」というヴァイオリンの2大名曲を楽しませてくれた真野城子さん、可憐ながらもコミカルな演技で観客を爆笑の渦に巻き込んでしまったソプラノの春木里奈ちゃん、針ヶ谷郁さんと私によるドツキ漫才ならぬドツキ合いピアノ連弾で休憩に入り、後半は、三上クニさんのジャズピアノで幕を開けました。クラシックが続いた中、彼の弾くメロウなバラードで雰囲気がガラッと変わり、素敵なアクセントとなりました。続く相原勇ちゃんは、話題の「冬のソナタ」のテーマ曲と「大きな古時計」を情感たっぷりに歌ってくれました。前日に「ドタキャン」ならぬ「ドタ参」の決まったバリトンの森本昌巳クンは、立派に穴を埋めてくれたどころか、それ以上のものをもたらしてくれたのは言うまでもありません。バスーンの森正太郎クン(有紗のパパでもあります)は、地味な低音楽器のイメージを打ち破るような繊細なソロ楽器としての見事な演奏を聴かせてくれました。そして、トリを務めたのは、ヴァイオリンの多治比純子さんとフルートの新開小秋さん、そして、私の「美女(?)トリオ」によるアンサンブルで、アメリカの名曲をちりばめた楽しい曲を演奏しました。皆、さすがにプロだと思い知らされたのは、リハーサルで少々ボロボロやっていても、本番では勘ドコロ、聴かせドコロをきちんと押さえた完璧な演奏をやってのけたということと、お客様を前にした時の気迫が演奏ににじみ出ていたということです。私自身のことでいえば、当日は色々な方の伴奏も含めて計7ステージ、14曲を弾いたことになります。皆さんは一人でそんなに大変だ、大変だと言って下さるのですが、実は本人は全然大変でも何でもなくて、弾いていてもう嬉しくて楽しくて仕方ありませんでした。やはり、なんだかんだと言っても音楽家は音を出している時が一番ハッピーなのであるなあ、ということを身に沁みて感じたものです。
 

演奏が続く間に 集計してもらっていたチケットの売上げに、それまでいただいていた寄付金の額を合わせ、寄付金総額が1万ドル(約100万円)の大台を達成したことを最後に皆様に報告することができました。これは実際のところ、当初誰一人として予想しなかったことだったと思います。とにもかくにも、津波発生からちょうど一ヶ月と1日、そして、コンサートをやる、と宣言してから3週間足らずで、これだけのものができました。それも、自分達がやったのではなく、皆さんのご支援とご支持のおかげで、これだけのものをやらせていただくことができた、と私は思っています。もとより、私の個人的な思い入れから始めたこととはいえ、私一人では到底なし得なかったことです。皆さんの気持ちが本当に嬉しくて、ありがたくて、最後の出演者全員によるオーケストラ伴奏付き(?)のアンコール、「翼を下さい」を歌いながら、私は遂にはじけてしまい、もう涙をこらえることができませんでした。本当は最後まで決して泣くまいと思っていたのですが、無理でした…。お客様全員のスタンディングオベーションという信じられないような光景を前に、ひたすら真空状態の中をさまよっているような感覚にとらわれていました。

 
 


このコンサート に際しては、本当に沢山の方から暖かいご寄付、ご協力をいただきましたが、思い起こせば、こちらのあつかましいお願いにも関わらず、皆さん実に快く、気持ちよく応じて下さいました。お会いした方々が一様におっしゃってくれた、頑張って下さい、という言葉にどれほど勇気づけられたかわかりません。また、コンサート開催に当たって、全面的にバックアップして下さった日系人会のスーザン大沼会長には、いつも非常に的確で素早い判断を下していただき、とてもスムーズに仕事を進めることができましたし、事務局の野田美知代さんには細かいところまで色々とアドバイスをいただき、本当に助かりました。そして、今回の私達の趣旨をご理解いただき、寒い中お集まりいただき、温かい拍手を下さった沢山のお客様には、心から感謝しています。私達は、お客様あっての音楽家ですから、お客様にそっぽを向かれたら、もう明日から食い上げです。寄付金はそこそこ集まったけれど、コンサートは何だかつまらなかった、と言われることだけが恐ろしかったのですが、お客様が喜んで下さるのが見えるだけで、演奏する方も張り切れるというもの。音楽家なんていうのは単純ですから、お金もさることながら、拍手さえいただければ喜んで働く人種なのです。それから、チラシやプログラムの印刷はじめ、広告やパブリシティー等全面的にバックアップして下さった(それもボランティアで!)インターメディア社長の吉澤信政さんには、本当にお世話になりました。この方、何かとダメ出しや文句が多くて、叱咤ばかりで激励してもらったという記憶は全くないのですが、実際には最後の最後まで、私達の手に負えないところや、至らないところをしっかりフォローして、カバーし続けて下さいました。吉澤さんがいなければ多分、この日はなかったでしょう。厳しい日程にも関わらず、最後の最後まで嫌な顔一つしないでチラシやプログラムのデザインに休日返上で頑張ってくれた、同じくインターメディアのデザイナー、村井美香さんには、もう頭が上がらないくらい無理をきいてもらいました。社長の吉澤さんが「大丈夫だよ」と言っても時にかえって不安が増すばかりでしたが、この村井さんに「大丈夫ですよ」と言われると、本当に安心したものです。そして、最後に、私の呼びかけに賛同して集まってくれた素晴らしい演奏家仲間達。年齢も性別も、専門もキャリアもバックグランドも出身校も様々ですが、共通するのは、日本人として、同じアジアの仲間として、津波の被災者を助けたい、という真摯で熱い思いと、何よりも音楽を愛する心でした。それだけで、皆、それぞれに忙しいスケジュールを縫って手弁当で駆けつけ(実際、駆けつけて、演奏して、駆け去って(?)行った人も何人かいましたっけ)、このコンサートのために情熱を注いでくれました。皆、本当に「快く」、「気持ちよく」でした。この素晴らしい仲間達を私は心から誇りに思います。皆、ありがとう。


時間がない から出来なかった、とか、時間があればもっと色々できた、などということは、この際言いません。限られた時間内で、精一杯できるだけのことをやった、その成果の一つの現れがこのコンサートでした。そして、実際得られたものは、当初の予想を遥かに上回って尚、余りあるものでした。今回このコンサートをやってみて思いました。日本人、捨てたものじゃありません。特にNYの日本人は素晴らしい。慌しい中で、色々と失礼なこともあったかも知れませんし、ご迷惑もかけたかも知れませんが、誰一人として、嫌な顔をする方はいらっしゃいませんでした。気持ちよく汗をかいて下さった皆さん、そして、私達に気持ちのいい汗をかかせて下さった皆さんに、被災地の人達、子供達に代わって私からもう一度お礼を言わせて下さい。本当にありがとう!
 

  2005年1月29日

あいばいくこ   


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