アメリカ入院「初体験」のお話
 
  今年に入って からと言うもの、ニューヨークは大寒波に見舞われており、1月などは平均気温が何とマイナス4℃という記録的な寒さでした。たまに氷点下を抜け出して日中の最高気温が1℃なんて日があると、「何て暖かいんだ!」などと感激してしまうほどです。さすがに、ババシャツとミニカイロ頼みの生活です。ここまで寒いと、気分はほとんどアラスカ、ああ、南の島、ジャマイカが懐かしい…。


さて、私、 アイバイクコ並びにダンナの皓一にとっては、昨年はあまり楽しからぬ一年であったと言わざるを得ないかもしれません。何と言っても、これまで大きな「病気」とか「病院」などとはおよそ縁の無かったはずのこの私が、こともあろうに4ヶ月の間に3回の大手術、通算約1ヶ月半の入院生活を余儀なくされるという事態に陥ったのですから、まさに「青天のへきれき」です。(「鬼の撹乱?」ん〜、そうとも言えるか?)だからといってあまり、自分の病気の自慢話をするつもりはありませんし、また、自慢になるような話でもないので、経緯だけを簡単にご報告することに致します。(一部の方々には既にご報告済で重複する部分もありますが、この先に続く(予定の!?)追加エピソードのために、もう一度おさらいとして我慢して読んで下さい。)
 

コトの発端 というのは、約13年勤めた事務所を昨年5月に退職したところに始まります。まあ、このへんの詳しい事情はここでは省きますが、今後の新たなステップに向けてのメンテナンスのつもりで受けた定期健康診断の内視鏡検査で偶然、「大腸ポリープ」などというものが発見されてしまったのです。それも、内視鏡で見つかった時点で同時に除去してしまえるような生易しいものではない、おびただしい数のポリープが大腸の約2/3の範囲に出来ている、とのこと。おまけにその後の生検の結果、これらのポリープは将来ガン化する可能性のあるもので、今すぐにも大腸のポリープの出来ている部分を切除するしか方法が無い、と主治医は言うのです。本人としては、自覚症状らしきものは全く無く、まさに「痛くも無い腹を探られる」ような不可解な思いを抱きながらも、その後紹介されて訪ねて行った外科医にさらに詳しい説明を受けて納得せざるを得ない状況となり、後はあれよあれよという間に手術の日取りが決り、6月10日に手術、入院となったのです。


事前の説明 によれば、昨今ではお腹に小さな穴を開けて行う腹腔鏡による手術(最近日本で話題となった例のアレ)が主流であり、開腹するよりも身体への負担が少なく、予後も遥かに良く、平均4〜5日で退院できるという良いことずくめの話だったので、それでお願いして手術に臨んだのです。大腸を直腸部分の約25センチ位だけ残して、約1メートルも切り取ったそうです。それでも、慣れれば日常生活に支障を来すようなことは殆ど無く、手術そのものは執刀医に言わせると「大成功、パーフェクト」とのことだったのですが、そこは好事魔多し…。アメリカの病院では、通常、大手術の後であろうと、翌日から「歩け、歩け」攻勢が始まり、おまけに3日目くらいから普通食が出てきます。消化器系の手術を受けたばかりのところにいきなり「ローストチキン」などを出されても、まともに食べられたものではなく(それでなくとも、はっきり言ってまともに食べられたものではないくらいマズイ!)そこに持ってきて、手術直後から続いていた何とも不快な痛みがいつまでも続くので、余計食欲もわいて来ません。そうこうする内に、医者の方からは退院勧告が出されるようになり、いくらこちらが「まだ、痛みが治まらない」と訴えても、私の英語力の足りなさか、それとも控えめな性格が災いしてあまり痛そうに見えなかったのか、「手術の後なのだから多少の痛みがあるのは当然」、「痛みはそのうちに治まるはず」、「手術は成功しているのだから、いつまでもこんな所にいることはないだろう」と、まるで追い立てられるように一週間後には退院させられたのでした。


ところが、 家に戻っても、いつまでたっても断続的な痛みが治まりません。こちらとしてはとにかく初めての体験ですから、初めのうちはこんなものなのか、と思っていたのですが、その内、だんだんとお腹が動かなくなり、痛みがますます増して来る上に、傷痕までが化膿し始めるに及んで我慢も限界に達し、執刀医に電話をすると「今すぐ来い」との返事。タクシーを飛ばして医者のオフィスに駆け込んだところ、診察室で私の様子と傷痕を一瞥するなり医者は難しい顔をして、その足で病院のER(救急センター)へ行けとの指示が与えられました。退院後わずか一週間で、再び病院に舞い戻り、この時から一ヶ月に渡る悪夢のような日々が始まったのです。色々と話には聞いていた悪名高きアメリカの病院のERでは、まるでタイムズスクエアのど真ん中にベッドごと放置されてしまったような喧燥の中で、いつ果てるとも知れない検査が延々と続き、疲れ果てて朦朧とした状態でふと気がつくと、夜もしらじらと明け始めた頃にようやく一般病棟に運び込まれていました。前日の午後にERに担ぎ込まれて以来、10時間以上経過していた計算になります。どうやら手術の合併症で腸の一部が捻転していたらしく、それが原因で通過障害を起こしていたようです。それから、しばらくの間は、体液の吸引と点滴で自然に治まるのを待っていたのですが、2週間ほどしても状況が改善しないようなので、結局再手術が決り、7月8日に開腹手術を受けました。その後、一週間に渡ってICU(集中治療室)に監禁(まさに、「監禁」という言葉がここにはふさわしい)され、ここに至って初めて痛みからは開放されたのですが、それまでにさんざん痛めつけていた腸をしばらく休ませるために人工肛門が取り付けられていました。ベッドが空いてようやく一般病棟に移ることができたのですが、さすがに一週間もベッドにくくりつけにされるとすっかり足腰が弱ってしまい、歩くのはおろか立っているのも容易ではありません。「歩く」という何でもないような行為がいかに難しいものであるのかを思い知らされながら、歩行訓練と慣れない人工肛門の扱いに苦戦する日々が続きます。しかしながらも、仕事でどうしても日本に行かなければならないダンナと入れ違いに日本から母親がヘルプに来てくれたこともあり、再入院からようやく丸一ヶ月を経て、無事退院を果たすことができました。
 

それからしばらく は自宅でリハビリの毎日を過ごし、体力も順調に戻って来ました。そして、ほぼ体力の回復した9月23日に、暫定的に取り付けた人工肛門を閉じて、腸の通過を元に戻す手術を受けて、その後約一週間入院、10月の初めに晴れて自由の身となって再び家に帰って来たという次第です。この3回目の手術も勿論開腹手術だったわけですが、お腹の中央を縦に約15センチ切り開いた痕が一部を除いて縫い合わされずにパックリ開いたままで、「霜降り赤身のお肉」の間に消毒のガーゼをはさんだだけといった状態となっていたのには驚きましたが(食事中の人がいたらゴメン)、毎日消毒をしている内に、みるみる間に傷口が閉じて来て、約一ヶ月後にはきれいにくっついてしまったのにはもっと驚かされました。いやー、人間の身体って本当に凄いもんだと我がことながら感激しました。


そんなこんな で、昨年は約半分近い日々を病気と共に過ごした計算となりますが、実際のところ、検査でたまたま見つかってしまった病気だったということもあり、いまだに本人、自分が「病気」だったというよりもむしろ「事故」に逢ってしまったような感覚の方が強くあります。でもその分、「まあ、起っちまったものはしょうがない」と、意外とサバサバと「腹をくくる」こともできたような気がします。お陰で、なかなか味わうことのできない良い経験ができたと思いますし(本当なら、こんな経験なんてしないで済めば一番いいんだけどね)、アメリカの病院生活というのも味わってみればそれなりに面白いこともあったし(逆に全くなかったらやりきれない!)、何よりも本当に沢山の方々からお見舞いや激励をいただき、人の優しさが本当に身に沁みて有り難く思えました。私自身ばかりではなく、私以上にストレスにさらされていたであろうダンナにとってもどれほど大きな励みとなったかわかりません。この場をお借りして、あらためてご心配をいただいた皆様にお礼を申し上げます。お陰様で、すっかり、とまでは行きませんが、日常生活はほぼ平常通り送れるほどに元気になりました。食欲も戻って来ましたし(なにせ、元がモトですから)、アルコール関連のリハビリも順調に続いています。「霜降り赤身」の傷口に至っては、周辺のお肉に押されるような形で隆起して、一体これは何段腹?といった恐ろしい様相を呈しています。今度もし日本に帰って温泉にでも行った時には、「彫物のある方お断り」と言われてしまうのではないかと今からビクビクしています。
 

と、まあ冗談は ともかくとして、日頃から健康でいられれば勿論それにこしたことはありませんが、健康を自負していた私自身ですらこの有様です。偶然とはいえ、少なくとも発見がもっと遅れていたら…ということを考えれば、本当に今回のことは不幸中の幸いと言えるでしょう。これからはますます医者とのつきあいが欠かせなくなりそうです。最後に、どうか決して健康を過信することなく、少なくとも40歳を過ぎたら毎年健康診断はきちんと受けて下さい、というメッセージを経験者として皆様にお伝えしておきたいと思います。そう、やっぱり「元気」が何よりです!
 

  2004年2月

相 場 育子   


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