「SAYONARA」ベーカー先生
 
アメリカ のフルート界を代表するフルーティスト、ジュリアス・ベーカー先生が2003年8月6日(水)87歳の生涯を閉じられたとの知らせが届きました。ベーカー先生はブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団、クリーブランド管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団で活躍された後1965年にレナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の首席フルートとなられ1983年に同交響楽団の首席奏者を引退されました。(引退記念演奏はズービン・メータ指揮ニューヨーク・フィルとのニールセンのフルート協奏曲。幸運にも私は聴く事が出来ました)その後もジュリアード音楽院、カーチス音楽院、カーネギー・メロン大学での教授活動を続けられ、併せてソロ活動やマスター・クラスでもお元気に活躍していました。日本との関わり合いも深く、沢山の日本人フルーティストが先生の薫陶を受けました。私はジュリアード音楽院ではサミュエル・バロン先生の生徒でしたが、大学院卒業後、幾度となくベーカー先生のマスタークラスに参加し、また何度もレッスンに通いました。御宅でのレッスンでは何時もルース夫人共々心から歓待して下さり、曲を吹き終わると「それじゃあデュエットだ!」とバロックやクーラウの二重奏を帰りの電車に間に合う時間ぎりぎりまでご一緒して下さいました。この二重奏では私がミスをすると「お前はプロだろう?」といたずらっぽく睨まれ、ご自分が間違えると「ストーップ!」と叫んで「もう一度最初からだ!」と繰り返され、次回は絶対ミスしないという「プロの意地」を何度も見せていただいた事が忘れられません。世界のトップ・フルーティストとの二重奏は厳しくも楽しく、笛を吹く喜びと音楽する喜びに満ち溢れたものでした。その時の先生の音色は今も僕の心に鮮やかです。以下は先生死去の報を受け、葬儀に参列の後に思いを綴ったエッセイです。
 

札幌 での夏のバンド指導を終えニューヨークに帰ってから時差ボケもまだ覚めやらぬ8月8日、友人であり京都市交響楽団首席フルート奏者の清水信貴君から思わぬメールが届きました。「ジュリアス・ベーカー先生が亡くなられました…仕事の都合でどうしても葬儀に行けないので何とかメッセージを届けてもらえないか」との依頼でした。昨年のワシントンDCでのフルート・コンベンションでは腎臓透析を行いながらもお元気な様子だったのにと思わぬ訃報に驚きを禁じ得ませんでしたが、私自身も最後のお別れをと思いとにかくニューヨーク・タイムスのサイトを開いてまずは死亡欄での確認をとりました。続いて葬儀社に葬儀会場の確認を取り地図をファックスで送ってもらい、10日(日)の午後2時、会場であるブルースターのオールド・サウスイースト教会へと向かいました。


マンハッタン のグランド・セントラル駅から約1時間10分、幾度となくレッスンのために通ったブルースターの駅。いつも笑顔で迎えに来てくれたルース夫人がそこに佇んでいるような気がして懐かしさと同時にベーカー先生が亡くなったと言う現実が徐々に実感され胸にひしひしと悲しみが湧いてきます。


タクシー で15分程で着いた教会は何となく見覚えがありました。そう、それもそのはず、私が初めてベーカー先生のマスター・クラスに参加した今を去る事約20年前、クラスの最後に投票で選ばれた学生達がコンサートを開いた場所だったのです。(清水信貴君もその一人で実はそのコンサートの録音テープがまだ私の手元にあり、それを聴きながらこの文を書いています)
 

その当時 から地元の史跡建造物に指定されている古い教会の玄関には既に人の列が出来ています。7〜80人も入れば立錐の余地も無いであろう聖堂への入り口にはベーカー先生のご家族による、恐らく急遽準備したに違いない、手作りの写真集や新聞のスクラップ・ブック等が並べられ、それらに見入る人が立ち止まっているためになかなか奥へと進む事が出来ません。すると葬儀の進行表を配っていた女性が突然「あなた!もしかしたらコーイチ!?」よく顔を見直すとビックリ、その昔マスター・クラスに参加していたクリスティンと言う女の子だったのです。いや20年前は「女の子」でしたが、今は立派な中年女性(失礼!)で自分の地元でフルートを教えていると言う事でした。この葬儀のためにボランティアをしているとの事、その後も何人か当時のクラスで一緒だった笛吹き達に再会し「悲しさ」が「懐かしさ」によって多少は薄められました。
 

ベーカー先生 はユダヤ人ですので、恐らくその伝統に従った簡素な葬儀なのでしょう。遺体の入った棺が正面に置かれ、その棺にはユダヤ人の象徴であるダビデの星(正三角形を二つ重ねた六角形のマーク)を象った枝葉のリースが乗せられています。リースの脇には先生愛用の楽器とにっこり笑った写真が飾られていました。お嬢さんから参列者への謝辞が述べられ、最初にフィラデルフィア管弦楽団の首席フルートであり先生の愛弟子であったジェフリー・ケーナー氏と日本の神戸国際コンクールで入賞しているスーザン・ヘプナー女史によるテレマンのデュエットが演奏されました。(因みに彼女はジュリアード音楽院で私の同期でした)葬儀の際の演奏習慣として終了後の拍手は無し。参列者はただただ聴き入っていました。続いてイエディッシュ(ヘブライ語)による聖書の言葉が「歌」の様にラビの口から流れ始め儀式は厳かに始まりました。


ベーカー先生 によりフルート四重奏にアレンジされたバッハの「マタイ受難曲」中のアリア「愛よりしてわが救い主は」が演奏された後、先生の永年の友人であり現在ジュリアード音楽院の学長であるジョセフ・ポリシ氏が弔辞を述べられました。ベーカー先生の機智に富んだ性格をよく知る人にとっては「さもあろう」と思わせる幾つかのエピソードを織り交ぜたお話に参列者からは節度のある笑いが誘い出されました。ベーカー先生がジュリアードから名誉博士号を授与された際のお話が弔辞の最後となりましたが、その会場で先生が旧知のポリシ氏に近づき「今から『博士』なんだからオレの言う事をよ〜く聞かなきゃいけないぞ!」とユーモアたっぷりに「脅し」をかけてきたのでポリシ氏は「何を言ってんだジュリー!(ベーカー先生の愛称)今までだってずいぶん良く聞いてきたじゃ…」。…話は突然途切れ、彼の目は潤み、最後の言葉がしばらく出てきませんでした。そして「サンキュー」と共に今にも流れ出しそうな涙を隠すように足早に席に戻りました。会場は水を打ったように静まり、彼の消え入るような最後の言葉にベーカー先生に対する限りなき尊敬と永年の友情を皆が感じたのでしょう。あちらこちらでハンカチで涙を拭く人がおりました。(私もその一人でした)
 

ラビ により儀式の最後の言葉が述べられましたが、その時にちょっとした「珍事」がありました。ラビが「ジュリー…」と棺に語りかけようとした途端、前方で携帯電話が鳴ったのです。それは一番前に座っていたご家族の一人に違いありませんでした。何故ならそれはベーカー先生十八番の「熊ん蜂の飛行」(!)の冒頭だったからです。会場は一瞬静まり返り、次に爆笑です。私も含めて皆「ほらジュリーがそこにいる!」「ああ!彼らしいじゃないか!」と口々に話し交わしましたが、私達は何かとても不思議な嬉しさに満たされ皆は泣き笑いに包まれました。可笑しくて、悲しくて涙が止まりませんでした。
 

最後 に棺が運び出される時、グルック作曲の「精霊の踊り」がCDで流されました。もちろんベーカー先生の演奏です。私にはこの曲を自分でCDに入れているにも関わらず何故「美しい」のか今一つピンと来ていませんでしたが、この時に私の曲に対するイメージと曲に対する認識が一体となりました。その静かなメヌエットは聖なる光の様な温かさに満たされ、続いてエウリディーチェを追って冥界をさまようオルフェウスの嘆きの歌では、数々の聖画に描かれる様な可憐な「天使達」に囲まれ笑顔でフルートを奏でるベーカー先生を私は(私達は)確かに見ました。「静謐なる喜び」に満たされながら、一つの魂がその音楽と共にゆっくりと上昇して行くのが心の中に確かに映ったのです。
 

儀式 は終りました。外に出るとルース夫人が皆に囲まれています。私もご挨拶をしましたが、ご自宅で茶話会が持たれるとの事で日本からのメッセージはその時にと思い、前出のジェフ・ケーナー氏の車で埋葬場まで同行する事となりました。
 

教会付属 の墓地では掘られた穴に棺が入れられ、ラビによる最後の言葉が述べられ参列者一人一人がスコップで土をかける儀式が行われました。これはセレモニーなので後で棺は取り上げられ改めて埋葬(土葬)されるとの事でした。私は22年ニューヨークに暮らしてきた中で何度か教会でのサービスに参列した事がありますが、実際棺に土をかけたのは初めての経験でしたので大変厳かな気持ちになりました。大人も子供も一様にスコップを手に取り交替に土をかけていきます。私は棺に土をかけ、その「ドサッ」という音を聞いた瞬間、大袈裟なようですが私自身が「生と死」という人間の営みにとっての「西洋なるもの」の一端と重なり合ったのを確かに感じました。
 

その後 ベーカー先生のご自宅では葬儀の参列者や先生ご夫妻の昔からの友人、知人が大勢集まり、大変賑やかな会となりました。アメリカらしい大きな家でしたが、以前の御宅に保管してあった先生の楽譜、写真や文献等はジュリアードの図書館に寄贈され「ジュリアス・ベーカー・コレクション」として保存されるとの事でした。しかしさりげなくピアノの上に置かれた「シカゴ交響楽団から」と刻まれた銀の小箱には見覚えがありました。それは以前私がレッスンに伺った折り先生が嬉しそうに「これはシカゴ交響楽団を辞めた時に指揮者のフリッツ・ライナーから記念にと贈られたものだよ」と語っていたもので、その先生の説明と共に、小さな箱が年代的に自分が生れる前から幼い頃にかけてのアメリカ・オーケストラ史を小声で語り続けているような気がしたのを鮮やかに思い出しました。
 

三々五々 と帰り始める人達の中、私もそろそろ辞去する頃となりました。ルース夫人にもう一度心からのお悔やみを述べ、女房育子も参列したかったのですが生憎手術後の静養のため来られず残念であった旨を告げると、夫人はえも言えぬ眼差しを向け私の手を取り「奥さんを大事にね。私からどうぞ宜しく」とおっしゃっいました。ご主人を亡くされて悲しみの真っ只中におられるであろう奥様が心から他人の事を案じて下さる…。私はニューヨークに来てから何度このような誠実なアメリカ婦人に出会ったでしょうか。この時もまた真の「アメリカン・レディー」との出会いに心打たれ、胸が一杯になりました。
 

以上 がベーカー先生の葬儀の様子ですが、実は最後にこのエッセイを読んでいただいた方々におことわりとお詫びをしたく思います。まず、日本にいて参列したくても出来なかった沢山のベーカー先生のお弟子さんや関係者の方達にその様子を映像で伝えられればと考え買ったばかりのデジタル・カメラを持参したのですが、写すのが叶わなかった事です。教会の中はとてもその様な雰囲気ではなく、参列者で写真を撮る人は誰もおらず、もちろん私自身その気にもなれず、マスタークラスの友人に「自分は日本の人達に写真で伝えたいのだが、今この場で写真を撮る事が適切では無いと思えるし、僕自身どうしてもその気になれない」と相談してみましたら、その友人から「You are quite sensitive and considerate」(彼方は『わきまえた思いやり』を理解していますよ)、と肩をたたかれました。私の判断は適切であったと信じています。従って、恐縮ですが葬儀の様子はこの拙文をお読みになった皆さんの想像力にお任せしたいと思います。もう一つはこの葬儀に参列した中で東洋人は3人だけ、私をのぞいた二人は韓国人でした。前述の通り日本にはベーカー先生の直接のお弟子さんや旧知の関係者の方がたくさんいらっしゃると思いますが、プライベートでレッスンを受けていたとは言え直弟子では無い私が葬儀に参列出来たのは正しく「タイミング」のさせる業と思います。僭越とは思いましたが、心の中でその様な方々の代わりに棺に土をかけ、ルース夫人にはベーカー先生を知る日本人フルーティストの名代としてお悔やみを述べさせていただきました。どうぞこの二点、ご容赦いただければと思います。
 

いつも ジョークを飛ばし、怪しい日本語で「オクサ〜ン!イチバ〜ン!モンダイナ〜イ!」と私達を笑わせてくれたベーカー先生。チェロ奏者ヨーヨー・マがニューヨーク・フィルとドヴォルザークのチェロ協奏曲でデビューの際、第一楽章の独奏チェロとの掛け合いでまるで「おい若いの!これが音楽さ!」とばかりに気迫のオブリガートを聴かせてくれた先生。私がマンハッタンを歩いていたら突然がばっとつかみかかられ(強盗か!)と身構えると「オレだ、オレだ、ジュリーだよ。実は今からレニーと録音さ!」。それは作曲家のバーンスタインが指揮しホセ・カレラスとキリ・テ・カナワが歌う「ウエスト・サイド物語」のCD録音の事でした。手を振りながらスタジオに向かって去っていった時の本当に嬉しそうだった先生…。
 

20世紀 を代表するフルーティストとしての芸術家人生を全うされ、アメリカ、日本そして世界の音楽ファンから敬愛されたジュリアス・ベーカー先生に心からのご冥福をお祈りします。
「SAYONARA」ベーカー先生!
                      合掌

  2003年8月29日

相 場 皓 一   


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