相場皓一・育子のニューヨーク便り

二人の近況などをお知らせします。不定期更新です。



2002年を振り返って…。(相場皓一)

2002年師走      (相場育子)

           (Dec. 2002)


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  2002年を振り返って…。
 
  2001年9月11日のテロのショックは昨年のご挨拶の欠礼というあまり良い形でない結果を生んでしまいました。他方それは言葉を変えれば無意識に「一年喪に服する」といった意味合いがあった気もします。(『それはタダの怠け根性よ!』と女房から声あり)

「普通の生活に戻る」を合言葉にニューヨーカー達はこの一年を暮らしてきました。私も3月に一年の活動のスタートとなる故郷足利市における「第5回赤十字チャリティー・コンサート」を無事に済ませる事が出来ました。久しぶりに(多分20年以上前)演奏したモーツアルトのフルート四重奏は近年あまり機会がなかった室内楽への情熱を再び思い出させてくれました。同じメンバーで11月の東京でのコンサートでも演奏し、好評を得る事が出来ました。また、足利工業大学付属高校吹奏楽部との共演は先生や生徒さん達のご協力で楽しく賑やかに終了し、足利赤十字病院には10万円の寄付が叶いました。



5月末には 初めて南国ジャマイカへバケーションに行きました。ニューヨークから5時間程かかるこの島はコーヒーの「ブルー・マウンテン」で有名ですが日本の喫茶店では他のコーヒーよりかなり割高であったのでお恥ずかしい話ですが昔は一度も飲んだ事が無く、更に「レゲエ」なる音楽も私にとっては演歌の三波春夫(古すぎる!)より更に縁遠い代物でありましたが…。さて到着後唸りを上げるモロに中古車というバンに詰め込まれ、空港からたっぷり一時間半はかかるリゾート施設に行く間は道路端につながれた牛、馬、山羊の群、ニワトリが時々道路に飛び出して「ギャーッ!」と急停車で冷や汗の連続。街中はと言えば台風でも来ようものなら吹っ飛ばされそうな「掘っ立て小屋」がやたらに目に付きリゾートのTVコマーシャルからは想像も出来ない「貧しさ」がそこに有りました。しかし、道路端で物売りをする人達の表情はあくまで明るく傍らの幼い子供達も楽しそうに手伝っています。公立の学校でしょうか、簡素ながら澄み切った青空によく映える鮮やかな色彩の制服に身を包んだ子供達がじゃれあう様に遊んでいる姿からは、貧困に付き物の「卑屈さ」は微塵もありません。例えは変ですが「コソドロはいても殺人事件は起こりそうも無い」という所です。お喋り好きのタクシーの運ちゃんを始めリゾートで働くジャマイカの人々にはアメリカ人、日本人とも違う「人生観」「ライフ・スタイル」がある事を強く感じました。リゾート施設に到着して真っ白な砂浜、エメラルド色の海、3Dの映像の様な手を伸ばせば届きそうな水平線と立体感のある雲の塊を見た途端、頭の中に何故かワーグナーの「マイスタージンガー前奏曲」が鳴り響きました。しかし、その風景も砂浜に寝そべって小一時間もすると少しずつ苦痛になってきたのがこれまた奇妙な感覚でしたが、それはニューヨークの喧燥にまみれた日常から超シンプルな非日常へと一気にトリップした結果の「禁断症状」だったのでしょう。それを通り過ぎれば後はあたかもメトロノームの目盛を思いっきり下げたようなアダージョのテンポに浸り、食べては泳ぎ、泳ぎ疲れたら眠り、水平線に沈む行く太陽を眺めながら浜辺で日長に暮らした3日間。「演歌」よりも馴染みの無かった「レゲエ」はすっかり「旧知の間柄」となってしまいました。いや〜極楽、極楽!。

 

話は前後 してしまいますが、このバケーションの前に北海道中標津町の中標津中学校でバンド指導のお話をいただき、5月というのに吐く息も白く曇る寒冷の地を初めて訪れました。その澄んだ空気の様なつぶらな瞳の子供達との楽しい音楽作り。人懐っこく傍らに寄ってくるその子達はまるで自分の子供時代を見ているようなタイムスリップ感覚です。
 大都会では就学児童や少年の犯罪が急激に目立ち始め、いわゆる「教育の危機」が声高に語られていますが、ある時は皆でコロコロと笑い、ある時は真剣そのものの表情の音楽つくりの中で見たその子達の「心の窓」である双眸の奥には大人への確かな信頼が育まれているのを感じ「まだまだ日本も捨てたもんじゃないな〜」とホッとする一時となりました。

 さて、続く夏のバンド指導は今まで通りつつがなく終りましたが、ひとつ忘れられない「イベント」がありました。実はこの夏で私が札幌でバンド指導を始めてちょうど10年目だったのですが、この事をお世話になっている方々にお話した所「じゃ何か記念に集まりましょうか?」という話がだんだん膨らみ「相場先生に教わった事があるゆかりの人達を集めて楽しく演奏会をやりましょう!」…軽いノリでの話がいつの間にやら大袈裟なことになって来ました。そうなればバンド業界の人間の行動力はスゴイ!連絡網作りから会場、楽器の手配、コピーの準備と話が進み、「え〜と、それじゃあ相場先生には指揮とソロの演奏と木管五重奏と…ついでにニューヨークのお話もお願いしま〜す!」。「チョ、チョ、チョット待って!そんなにいっぱい出来ないよ〜!」という叫びは完全に無視され、集まった8月6日午前中に練習、午後本番、直後にお菓子で親睦パーティー、夜の部は「宴会」と相成りました。午前中に楽器を持って続々と集まってきた人から「相場先生、私の事憶えてますか〜!」と声をかけられても咄嗟には判りません。「○○中学の時のAで〜す!」「△△高校でホルン吹いてた××で〜す!」…記憶のアルバムをめくると制服姿の笑顔の面影がだんだん浮かんできます。

 総勢47名を目の前に指揮台に立った時、楽器を持ったメンバーに「あの時の子供達」が重なり合って様々な思い出が心の中を通り過ぎました。沢山の人にお世話になり、励まされ、新たに他の楽器やバンドのレパートリーを勉強し、夏の一時期フルーティストとは全く異なる音楽の分野で過ごす事の叶ったこの10年間。「コンクールの結果に囚われず学校を卒業後も、その後も音楽を大切に『生涯の友』として欲しい」「一枚の楽譜と一つの楽器が有ればそこに音楽を共有できる仲間が出来る。これから生きて行く過程で間違いなく有るだろう沢山の辛い事や苦しい事に遭遇した時、その仲間達と楽しく音楽作りをした事を思い出してその辛さを乗り越える糧として欲しい」etc.…それぞれの講習の終わりに様々な言葉を子供達に言い続けてきた私ですが、「記念バンド演奏会」に集った若いメンバーが「教え子」なんて言える程何かを教えてきた訳ではありません。ただ、折々に子供達に語り続けた結果として、もしもこの場に音楽の喜びを保ち続けてくれている人が集まってくれたのならば、この10年間私が実践してきた事は「そんなに間違った事では無かった」のでは…と思い至りました。指揮をしながらそこに自分が佇んでいる事への不思議さと、集まってくれた皆への感謝に不覚にも目頭が熱くなりました。「大人の部、夜の大宴会」の異様な盛り上がりはチョットここでは書けません…宴会後に撮った記念写真の中のお皿とビール瓶の数が全てを物語っています。

 

夏に続く 恒例秋の日本公演。東京、足利市では14年間続くリサイタルに一度も欠かさず来てくれている人達も含め、アットホームな雰囲気で終わる事が出来ました。お客様の数が少な目だったのは残念でしたが、滞日中に幾つかのコンサートに行った所、私などより遥かに有名な演奏家やオーケストラのコンサートも(えっ?)とわが目を疑うほどの入りで、現在の日本の経済状態やムードが見事に反映されていると言っても過言ではないでしょう。他方、何か一つの事柄がテレビなどのマスコミ媒体で知られると、そこに目掛けてまるで憂さ晴らしかの様に熱中する日本人の姿がかくも「異様」に見えるのは、果たして私だけでしょうか。
再び、北海道のお話で恐縮ですが、この秋は一ヶ月間で4回彼の地を往復する「新記録」を打ち立てました。その中には夏に指導した中学校と高校の定期演奏会でのフルート演奏がありましたが、何時もそうするように会の後半では子供達に混じって合奏の中に入りました。高校の方では、ラテン・ポップスのアドリブ・ソロなど演奏し、根が嫌いではないので大いに楽しんで演奏する事が出来ました。

 

帰米直前 には道南の長万部中学校での定期演奏会にゲスト指揮者として出演してきましたが、こちらでまた一つ新たな発見がありました。それは「国際化」と言う言葉の本当の意味についてです。

 一時は日本中を席巻したかのように思われたこの言葉は、今ではすっかり鳴りを潜めてしまいました。それはアメリカで暮らす私にとって昨年のテロと決して無関係ではありません。テロの被害に加えてアメリカでの様々な企業スキャンダルがこの超大国の威信を大きく失墜させ『「国際化」=「アメリカ化」』の図式の横っ面を張り倒した感があります。また、10月に忽然と実現した北朝鮮の拉致被害者の帰国で、直後は頑なだったその人達の表情が「故郷に戻った」ことにより大きな変容を遂げた様子を見れば、人間の心とは後から幾ら何かを付け加えようとしても、ただ憧れや劣等感から他の文化への追従をしてみても、厳として揺るがない自分自身が育まれた「居場所」、すなわち「日本人としての自分の存在」がある事は明白と思います。

 はるか噴火湾を臨む長万部町の小さなコンサート会場でニューヨークから来た私がヨーロッパ音楽である「メリー・ウィドー」やアメリカの黒人霊歌「ディープ・リバー」を中学生と一緒に演奏している事を何と形容したら良いでしょうか。コンサート前の子供達への一言で「私が地球の裏側からここに来ている様にこれからは君達が地球の裏側へ行く。こんな時代がついに来た。臆せず様々な分野に羽ばたいて欲しい。しかし、たとえ世界の何処にいても自分がどこから来てどこへ帰るのかを心の片隅においていて欲しい」と言いました。(人は海外に暮らしているからと言って「国際化」している訳ではない。「自分の心が戻ってくる所」を知る人が初めて「世界」を知る事が出来る)…そんな気持ちを込めた私の言葉に微かな涙と共に小さく肯く一人一人の子供達の顔を見ながら私にとって、この子供達にとって「これからの国際化」が確かに進む事を心から願いました。

 …ところでコンサート第3部は「ポップス・ステージ」です。札幌での「ラテン・アドリブ」ですっかり気を良くしたお陰でしょうか。(それともただ根が『単純』なのでしょうか)ついに子供達と一緒に「スタンド」(曲に合わせて立ったり座ったり踊ったりする事)を『決行』したのです。ゲネ・プロ時間にステージ裏で子供達の「指導」を受けました。「センセ、ハイここで立って!ここで座って!…ちィ〜がァ〜ウ〜!シッカリ〜!」「センセ!また間違えた〜!」(ハア、ハア…指揮より難しい…(--;))。その後タキシードに着替えて楽屋を出ると子供達は一瞬ハッとしてこちらを見て一声。「センセ〜オトコマエ(男前)〜!」。いや〜長万部の子供は皆正直で良い子ですね〜。(ン?…女房の冷たい視線が背中に…)

 

さてさて、長々と書きましたが最後にとっておき!の大ニュース。相場家はこの12月11日で結婚20年目を迎えたのであります。二人でワインなど傾け、思い出話をしていたその晩、突然みどりちゃん(ヴァイオリニストの五嶋みどりさん)から電話がありました。
 「相場さん、お元気?ミドリです!」超多忙な彼女ですが時々旅先から電話をくれます。サンフランシスコでのコンサートを翌晩に控えているとの事でしたが彼女の近況や日本でのみどり財団レクチャーコンサートの話など楽しくお話しました。今年がデビュー20周年の彼女の事に話が及ぶと(そう言えば我々もデビュー…(じゃない!)結婚20周年なんだな〜)(そう言えば僕が結婚式で帰国していた間にみどりちゃんはズービン・メータ指揮のニューヨーク・フィルでサプライズ・デビュー。我々が一緒にニューヨークに戻った時はもうみどりちゃんは「有名人」だったっけ…)と彼女が世に出て行くのとほぼ同時期に私達が過ごした時間に対する感慨も新たになりました。(僕らの「20周年」は何となく言うのが恥ずかしくて彼女には言いませんでしたが)

 なんやかんやで20年…「回顧録」にはチト若すぎる私なのでそれはもう少し後に譲りたいと思いますが、最近「私の『青春』ってドコに行ったのかしらぁ〜…」と飲む程に目が据わってくる女房を何とかなだめつつ、皆様のご健勝と2003年のご活躍を心からお祈りして乱筆乱文のご挨拶とさせていただきます。

Season's Greeting & Happy New Year 2003!

相 場 皓 一   

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  2002年師走
 
  皆様お元気 でお過ごしでしょうか。お陰様で、アイバ家も全員(!)何とか元気で一年を終えようとしています。今年は日米ともにあまり元気のない一年だったような気がしますが、それでも我が家における楽しかったことの幾つかを交えてご報告したいと思います。

 まずは、今年も恒例の日本でのコンサートを11月に行いました。少々欲張って、今年は足利、秩父、東京、札幌と足を運び、沢山の皆様とお会いすることができました。お越し下さった方々、お世話になった方々はじめ、応援して下さった全ての皆様、有難うございました。行った先々での打ち上げ、宴会の数々、毎度のことながら、これなくして何のためにコンサートを行うのかと思ってしまいます。



札幌では、コンサートの翌日、地元の方の推薦で、定山渓温泉のはずれの方にあるちょっと変わった日帰り温泉に行って来ました。何が変わっているかというと、ここは「インド人の作る本格インドカレー」というのが売り物の温泉なのです。雪の舞う山裾の露天風呂であたり一面の雪景色を眺めながらの入浴。2週間にわたってのコンサートと移動と連日の宴会の疲れが癒されるような至福のいいお湯でした。そして、全身ポカポカになった身体に、さらに追い討ちをかけるようなスパイスの攻撃はこれまたなかなかなものでありました。一見ミスマッチのようで、温泉の定番コースからもかなりはずれますが、新しい温泉の楽しみ方としては結構これも面白いと思います。

 

さて、今年 の我が家におけるコンサート以外の主なイベントといえば、5月末に行ったジャマイカ旅行が上げられるでしょう。ここはカリブ海に浮かぶ、ブルーマウンテンコーヒーとレゲエで有名な島で、観光資源以外はほとんどめぼしい産業のないような本当に貧しい国なのですが、ひたすら青い海とどこまでも続く真っ白い砂浜、とびきり気のよさそうな人懐っこい人々が何よりの魅力です。タクシーで走っていると、至る所に犬やヤギが放し飼いにされ、牛が道端に寝そべり、鶏が悠然と車の前を渡って行く。人も動物も実にのんびりしたものです。ただ、電力の供給が今ひとつ心もとない感じで、ホテルに着いた途端に停電に見舞われて一瞬パニックになりました。とにかく、夜に電気が消えてしまうとあたり一面文字通りの真暗闇。4日間の滞在中にこうした停電に数回遭いましたが、これも日常茶飯事のようで、地元の人々などは慌てず騒がず、のんびりとロウソクの下で復旧を待っているだけです。生活のペースがことごとく我々とは違います。泊まったホテルは、何から何まで全て料金に含まれているリゾートだったので、一旦払い込んでしまえば中にいる限りにおいては、レストランやバーからマリンスポーツ、ジムに至るまで、好きな時に好きなだけ利用できるのが有難かったです。朝は日の出とともに目覚め、美味しいコーヒーを飲んで、ビーチでひとしきり遊んだあとは砂浜のハンモックでピナコラーダを飲みながら本を読んだりCDを聴いたりして過ごし、いつの間にかうとうとして、またちょっとお腹がすいたら、グリルで好きな肉や魚を焼いてもらってバーガーを食べ、午後はプールに入ったりジャクジーに浸かったりして過ごすうちに日が沈んで行くといった具合です。夜にはちょっとばかりおしゃれをしてレストランで食事。食べ物は美味しいし、果物も野菜もふんだんにある。なにしろ名物のジャークチキンやカレーに使われるチキンなどは全てそのへんを勝手気ままに歩き回っていたはずの超天然ものの地鶏ですし、ビーフだって例の道端のあちらこちらにのんびりと寝そべっていた牛のはずですから美味しくないわけがありません。一日中ほとんど時計を見ることもなく、まさにお日様と腹時計だけの浮世離れした日々です。本当にまあ何と贅沢なことでありましょう!ダンナなどはニューヨークに着いた途端「また行くぞー!」と念仏のようにわめき続けています。どうやら都会の生活に疲れた時は南の島に限る、という観念が完全にインプットされてしまったようです。「また、行こう!」



ところで、実はこれを書いているのが12月11日、アイバ家の20回目の結婚記念日なのであります。今さら何がめでたいでもありませんが、とにかくここまで夫婦を続けてこられただけでもメデタシとすべきでしょうか。この際正直に告白しますと、つい数日前まで結婚記念日ということすら二人ともコロッと忘れていたくらいで、たまたま何かのきっかけで結婚記念日を思い出し、何度も計算して「もしかして、20年!?」とわかって大騒ぎになった(?)というのが真相です。まあ、20年もたつとこんなものです。
 (イ)「で、どうする?何かお祝いする?それとも記念になるようなものでも買う?」
 (コ)「ウーン、とりあえずメシでも食いに行こう。」
 そう、アイバ家の場合、何を差し置いても色気より食い気が優先するのです。
 (イ)「だからー、何か記念するようなものとか、区切りになるようなイベントとかー」
 (コ)「まあ、考えよう。」
 ここで注意すべきことは、設定目標に対する達成比率の著しく低い(要するに、でかい口ばかりきくくせにちっとも行動に移さない)アイバ家(特に(コ))においては、この場合の「考えよう」というのは政治家の常套句である「前向きに対処します」とほぼ同義語であるということです。多分10年たっても状況は何一つ変わらず、とりあえずメシ食っておしまい、となっているかも知れません。まあ、およそ進歩などないようには見えても、良きにつけ悪しきにつけこうした駆け引きが判ってきたというだけでも、20年という時間の蓄積はそれなりにモノをいっていると思うことにしましょう。

 と、ここまで書いてふと読み返してみると、何のことはない、アイバ家の話題に上ることといったら、ことごとく「食べる」か「飲む」類の話ばかりではないですか。我ながら、いささか情けなく思いますが、そうは言っても「食」というのは生きる上での欠くべからざる重要な部分ではあり、食べる楽しみなくしては人生の喜びも半減でしょうから、あだやおろそかにすべきではないと常々考えている我々にとって、話題の多くを占めてしまうのは無理からぬことなのです。そう、人生やはり色気より食い気です!

 何かと腹の立つことも多い昨今ではありますが、せいぜい美味しいものを食べて、心を穏やかに、力まず、無理せず、余計なこともあまり考えず、煩わされず、できることだけをひたすらやり続ける、そんな心構えで新しい年を過ごせたらいいなと思っています。来年もどうかよろしくお付き合い下さい。

アイバイクコ   


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